昭和五十七年五月四日 朝の御理解
御理解第六十七節
何事もくぎづけではない。信心をめいめいにしておらねば長う続かぬ。
有り難いとかもったいないとか、ま、これは信心で云う有り難いであり、もったいなしでありますが、この有り難いもったいないというのは限りがないものです。
今日私は御神前で、信心の昇華、しょうかというのは昇ると書いて華と、昇華していくね、も限りなく高められていくものです。限りなく深められていくもの、ただ、本当におかげ頂いて有り難いとこういう、その有り難いと云うものは、限りがないものです。
今までお粗末御無礼と思うていた事に対しても、限りない御礼を申し上げねばならないこと。そこから本当にもったいなしという心も限りがないものね、これは確かに教祖様が信心をすれば、一年一年有り難うなってくると仰せられる、その事だと思うです。
だからその、信心がくぎづけになっておっては、その有り難い、もったいないというか、それが育たないです。も金光様の教えちは、こうだとも知っとりますということで終わってしまう。
これだけの事は、もう金光教の信心は分かっておりますと、金光教の信心はも、それこそ、合楽理念が助かりの理念として、ま、これはただ助かりの理念に入ったというだけで、この理念は行じていけばいくほどに、も、限りがないものであるということね。
またと云うことは、限りなく有り難くなっていくのであり、限りないもったいなしという心がつのってくるものである。もし、有り難くなっていかないならば、あなたの信心はくぎづけになっておるということ。
だからそう云うことではあのう、何と申しますか、おかげが進展していかないです。限りない有り難い、限りないもったいないというその心に限りないおかげが約束されるのです。ね。
確かに、信心が信心を教えてくれるというように、昨日の御理解などはもうどれだけ頂いかしらんです。あの天地日月の心になること肝要だと云うあの御教えなんかね、あの御理解は。昨日頂いてみてまた初めて分かったと。
成る程、教祖様の御教えが沢山あるんだけれども、中途半端に終わったり、二代、三代に段々こう例えば衰微していくといったような事が、何故なのかというような事がね、昨日はいわゆる流行る事もなければ終わりもないと云うのは、での天地金乃神の御正体なんですよね。
ですからその、天地金乃神の心を心とする生き方が天地日月なんです。だからこの心を頂いていかないから、いわば、流行りすたりがあるのだ。初代の時には大した御比礼であったけれども、二代なったり三代なったり、段々薄くなっていくという低下していくと云うことになる。
教団全体にも云える事だ、というような意味の御理解を頂いてみてです、初めてどうしても、何と云うても神の心を心とするということが、いわゆる天地日月の心になること肝要なりと云われる、これを自分のものに、いわゆる昇華していかなきゃならない。高められていかなきゃならない。広められていくものなんだと云うことが、まお育てを頂くということにもなるでしょうがね、金光教の事はもう知ってる。もう詳しく勉強したというだけでね、であのお話は頂かんでん金光様の信心ちはも、こうだと分かっておるだけであったら、それはもう釘付けになっとるのですから、おかげもくぎづけになっとりましょう。またそれでは、永う続かない事になります。子にも孫にも伝わっていかないです。
昨日熊谷さんのところのま、恒例の宅祭りでしたが、本当に、私は昨日も皆さんに聞いてもらった事でしたけれども、もう毎年何十年続けられとります、お宅祭りが。それがやはり、一年歳々、何とはなしにお祭りを奉仕させてもろうて、有り難くなってくるです。私自身が。というのは熊谷さんの信心がもう八十三才でしょうか、の信心がやはり、一年一年本当なことから本当へとま段階を踏むようにして登っていかれておられることだけではなくて、一年一年有り難うなっていっとられるのであり、それこそ信心の位を心に感じていっておられる証拠であると私は思うです。
どうでしょう皆さん、一年一年有り難うなっていっておるでしょうか。私昨日あちらへ参りまして一番初めに頂いたのがね、あのう、黒の真鯉の、真鯉のね、もう素晴らしい大きい、あのう御節句にあげるあの鯉のぼりですね。それが黒鯉が一匹、さぁーっとそれこそ五月の空に風をそれこそ薫風を受けて、こう泳いでおるところを頂いたんです。
まあ熊谷さんの信心だろうとばっかりおもってましたけど、何故一匹だろうがと思ったんです。そいから帰ってまた御祈念させてもらいその事を頂いたことをこう思わせてもらいよったら、ははぁこれは何と云うてもいわゆる、熊谷さんおひとりの信心だと云うことだと思う。
これに緋鯉やら、小さい段々小さいのが五匹も六匹もずーっと五月の空にこう泳いでおる情景を思うてみてね、これはどうでも、あのう、ご長男が則郎さん、一人息子です。娘さん達は何人もおられますけども、も、みんな縁についとります。
そいでこれは、息子さん達御夫婦なら、信心がないわけじゃない。子供ん時、奥さんも、も、則郎さんも時代から、当時の椛目に通うておったくらいですから、またおかげの事はよく知ってますから、信心はしているんですけれどもね、そのその風をはらんで泳いでおるということがないのです。
昨日もあちらへ参りましたら、今度則郎さんが今度東京から熊本の方へ栄転、支店長として見えたわけですけれども、どうですかもう熊本になれましたか、ち私はいったら、それがもう先生、あの熊本ち云うところは、もう、ちょっと妙なとこである。肥後もっこすち云うが、本当にもう、もうとにかくよそ者の考え方何かは入れないという、そのあれがあるそうですね。
熊本にその、デパートというかね、マーケットを出そうとして、そうにゃあのう手を尽くしたけどね、絶対熊本の商人が、よそ者な入れんち云うても入れん働きがあるそうですよ。あの肥後もっこすち、いう何でしょうかね。
小さい村にはこ、村根性というのがあるが、熊本には熊本のそういう根性があってなかなかやりにくいですと、云うわけなんです。筑後の者と熊本の者じゃ性分が合わんちいう。なかなか難しいところですとま、云うておられましたがですね。
そんなら例え、どういう中にあっても、いや言葉人種の違った南米ですらも、こ、立ち行くじゃないかとたとえばね、ビリグイ教会なんかは、黒人が助かり、白人が助かり、ね、合楽理念に傾倒していくね。
ですからなら、例えば信心しておりますといのはね、例えば、あの、ぶら下がっとるというだけだと思うのですよ。ところが私思うのに、このぶら下がった信心がどのくらい多いか分からんですね。
本当に教えを身につけてです、教えの風にあの、それこそ五月の空に鯉が泳いでいるような生き方をしておる人がどのくらいおるだろうか、金光教の中に。ただ金光様の信心しよります、毎日日参しよりますというだけの、おかげは頂いとるかもしれんけれども、教えに基づいた、云うなら泳ぎ方ができていないという人が、もうほとんどじゃないでしょうか、皆さんの場合はどうでしょうか。
合楽理念が血肉になっていきよるでしょうかね、御商売をなさるのなら、もう御商売は合楽理念をもってする他はない。お百姓しとる方ならば、本当にお百姓は合楽理念をもってするほかないと思いこまれて、それに確信を持ったそういう生き方のできる人があるだろうか、どの位あるだろうか、そういう意味あいで、なら、熊谷さんの場合なんかはですね、云うなら合楽理念にそれこそ風いっぱい受けて、こう、あの泳いでおる鯉のぼりのようなものである。
これになら、息子達が嫁達が孫達がですね、緋鯉真鯉、小さい鯉達が一緒に五匹も六匹も、こう泳ぐようになったときこそが、見物であろうと私は思うですね。信心がないわけでも、反対するわけでもないのですよ。
ただ、教えをもってなら、どんなに肥後もっこすの難しいところであっても、合楽理念をもってすれば、こういう成績を上げる事ができるという私は、これから実証して行かなければならない事を求められておる、一匹の鯉では淋しい。家族五人おるなら、五匹の鯉がこうその五月の空に泳ぐような感じの信心を。云うなら、勢を揃えた信心をさせて頂かなければならないなと云うことでしょうね。 どうでしょう、あの風もなあにもなくて、無風の状態で鯉のぼりがさげてあっても、だらぁっと下がっとる。こげん見苦しいものはないでしょうがね。風があって、そん風をこう受けてね、まっすぐ一の字になって泳いでおる鯉のぼりであって、初めて鯉のぼりのま、勇ましさも、もう美しさもあるわけなんですね。
いわゆる中温無事ばっかりを思うたり願ったりしておるね、例えば、いろんな問題、それをなら、ひとつの風として受けて、その問題によって信心が進んでいくというような生き方を身につけていくということがですね、私教の御理解頂いてね、信心がくぎづけではない人の姿であるという風に思いますね。
お参りしております。教えは一辺通り分かりましたと、合楽理念ちは、もう、黙って治めるだけでいいですねと簡単にですけれども、それをそれで云うなら、割きっとんたんでは、もうあなたの信心は釘付けになっておるということになるのじゃないでしょうか。
限りない、云うならば、今日は私が頂きました、昇華ね、こう昇華していくね、私共の信心がいよいよ高度な信心に進んでいくということはね、云うなら活動なしには進んでいかんです。日々の事柄の中に、その事柄をね、人情で裁くのではなくて、神情一筋に、いや、合楽理念に基づいて、それを頂ききっていくという生き方こそです、も、限りない信心のお育てを頂くことができる。
これはいろいろに頂かれるのです。この御教えは信心は釘付けではないね、釘付けだけだと、信心はとどまってしまうと云うように、教えられとられますが、今日、私はね、教えを行じておりますと教えが必ずまた、次の教えを教えてくれます。
いわゆる仕事が仕事を教えてくれるように、そして事柄の一切をね、いうならば、五月の風を受けきって、神愛と受けきってね、勇ましく泳いでいけれる生き方から、いわば一年一年有り難うなっていくのであり、はあ、これが信心の位というもんであろうかと云うようにね、年をとるほど位がつくものじゃと、仰せられるような、金光大神の信心をまともに頂くためには、まともに教えを頂かなければならない。その教えも様々ある中にね、その神をなすものは、どこまでも天地日月の心になること肝要と教えられる。そういう生き方を身につけて行くと云うこと、も、これは限りなく云うならね、合楽理念が助かりの理念であると、その助かりもここまで助かったら、後はよいというのじゃない、限りないものに、つながっていくためには、私共の信心もやはり、限りないね、昇華できれる信心でなからなければならんと云うことですね。 どうぞ